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2015年3月12日木曜日

築城(都市計画)


家康の築城(都市計画)に興味があります。

 
日本の築城は、城を築く目的を明確にして城を築く土地を選定し、構(かまえ)や建物の設計と計画である「縄張」を行って土木工事の「普請」、ついで建築工事の「作事」の順で建設工事が行われた。[1][2

一般に、日本の城は堀と塁で区画した曲輪の組み合わせからなる。本丸などの城の中心となる主郭(曲輪)を守るように、曲輪の配置や大きさ、平面のかたち、高さ、堀の深さや幅などのほか、建物の位置、規模、形も設計する。この作業を縄張(なわばり)という。[2]

 
普請(ふしん)は、一般には土木工事のことを指す言葉であり、城の土木工事のことを特に城普請(しろぶしん)ともいう。
まず、堀や塁の計画を実際の場所に縄によって線描する。これを縄打ち(なわうち)という。現代の、日本の建築工事で行われる「遣り方」(やりかた)と目的は同じである。普請の段階では地形を整えて、土塁を盛り、石垣を積み、各種の堀が穿たれる。石垣工事は、石垣職人が技術を持たない作業員に、技術的な指示を出して工事を進めた。[1]

 
塁上に櫓を上げ、塀を掛ける。曲輪の出入り口である虎口には門を建てる。このような建築工事を作事(さくじ)という。天守や、御殿などの住宅建築も作事工事である。

縄張りにもとづいて、具体的な寸法を記した指図(さしず)という図面を描き、これを元に「城大工」と呼ばれる城郭建築専門の大工たちが施工を行う。ちなみに、平面図など施工に欠かせない指図のほか、立面図のことを姿図(すがたず)、柱や梁など骨組みの立ち上がりだけを描いたものを建地割図(たてじわりず)という。姿図と建地割図がある例は少なく、徳川氏の江戸城天守や岡山城天守などに例がある。[1]



 
中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた(中津藩も参照)。

周防灘(豊前海)に臨む中津川(山国川の派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城ともされ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社がある。


扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。

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