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2013年12月28日土曜日

国家の品格

国家の品格

細木数子が爆発的に売れた。国家の品格は下品である。


細木数子だけではない。

テレビを見ると、下品な情報がてんこ盛り。

日本国は下品である。



細木 数子(ほそき かずこ、1938年(昭和13年)4月4日 - )は、日本の作家・タレント・占術家。テレビ出演の際の肩書きは心照学研究家・人間学研究家などと称する場合もある。下記のようにかつては実業家でもあった。東京府東京市渋谷区(現:東京都渋谷区)出身。寅年、八白土星、牡羊座。

東京・渋谷に生まれた。 父・之伴の許には大野伴睦や、松葉会会長の兄などが出入りしており、暴力団関係にも幅広い人脈をもっていた[1]。之伴は太平洋戦争が始まる頃、政治活動から身を引き、「ロマンスクラブ」という名前のカフェを始めた[2]。「ロマンスクラブ」はやがて「南海」という名に改められた。

1945年[3]2月、(数子が満7歳の時)父・之伴は70歳で病没した[4]。店は「娘茶屋」という名に変わった。

16歳のころにはミス渋谷に選ばれた。1955年、東京駅の高架下で「ポニー」というスタンドコーヒーの店を開く。成徳女子高等学校在学中に宝塚音楽学校に合格するが入学辞退した。その後、高校を3年で中退し、店を切り盛りした。17歳の時だった[5]。

ポニーを開店から、わずか半年で売却。その資金をもとに、新橋のガード近くにクラブ「潤」をオープン。翌年には売却する。1958年には、銀座に「かずさ」をオープン。

20歳で銀座にクラブを開くなど、若い頃から飲食店の仕事を行ってきた。

1963年、店に来ていた客のプロポーズを受け結婚。相手は静岡の眼鏡店の後継ぎ息子だった。しかし3ヵ月で婚家を飛び出し、1966年に離婚した[6]。

1975年に4億円の負債を抱えた島倉千代子の後見人としてこれを解決、島倉の興行の権利、レコードの販売権、同歌手の所有していた赤坂のマンションを手に入れた。

1977年 芸能プロダクション「ミュージック・オフィス」を設立。細木は「光星龍」という名前で社長に就任し、島倉の作詞も手掛けるようになる[7]。

1982年に、独自の研究で編み出したとされる“六星占術”という占いに関する本を出版。1985年に出した『運命を読む六星占術入門』がベストセラーとなり、以降、「六星占術」に関する著作を次々に発表、「六星占術」ブームを巻き起こし、人気占い師となる[8]。

銀座のクラブのママであった1983年(45歳)に、政財界にも力を持つ事で知られる陽明学者の安岡正篤(1898年 - 1983年)と知り合い、結婚の約束を取り交わす。安岡の親族が反対する中、安岡と交わした結婚誓約書をもとに単独で婚姻届を提出し、受理されたが、当時安岡は85歳と高齢であり、入院先の病院での検査では認知症の症状があったとも言われ[9]、安岡の親族が「婚姻の無効」の調停申し立てを行った翌月、安岡は他界した[7]。調停により、婚姻は無効であるとした和解が成立し、初七日には籍を抜くこととなった。

また細木が相談者に先祖供養として勧めていたお墓の購入に関して、1993年には「人の不幸、不安につけこんで不当に高額な墓を買わされた」と霊感商法ばりの損害賠償を求める訴訟が全国各地で起こった[7]。細木は墓の鑑定料として10万円を受取り、相談者は鑑定で勧められた1000万円を越える墓を購入、借金の返済に苦しんだ[7]。当時細木は久保田家石材商店とつながりがあり細木の著書の巻末には同社の連絡先一覧も掲載されていた[7]。

1990年代は細木はテレビに出るなどの表立った活動を自粛あるいは避けていたが、それは細木本人が大殺界の時期だったからとしている。ただし、フジテレビ『料理の鉄人』へは『テレビはコミュニケーションの場』と、異例のノーギャラで出演していた。

1999年に勃発した浅香光代と野村沙知代のバトル(ミッチー・サッチー騒動)の際には、野村と親交があることから彼女を擁護する立場を取っていた。

その後、2003年頃から、細木が人生相談を行う特別番組が20%前後の高視聴率を挙げるようになったことから、各局で多くのレギュラー番組を持つようになり、「視聴率の女王」と呼ばれるようになった。そして、野村やデヴィ・スカルノらに代わって、熟女タレントの代表的存在とされるようになった。

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